心が綺麗になったかもしれません。
こんにちは。
やはり春はいい。
日差し、風、匂い、どれをとっても暖かい。
すれ違う人も、厳しい冬を乗り越えてきたのだろう。晴れやかな表情を浮かべている。
3月、儚さと歓びの同居するこの季節だから、隆盛と退廃を感じさせる桜により一層の感動を与えられるのかもしれない。
散り際が最も美しいのなら、開花し始めは醜いのだろうか。
輝かしい結果のみが素晴らしく、その過程は見るに値しないのだろうか。
冬をどう耐え忍んでいたかには関心を持ちはしないのだろうか。
前では、影は不要なのだろうか。
時には明るいものを見ていては見えてこない、暗いものに目を向けてみるのもいいのかもしれない。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
時間の経過が感じられました。
昔はただただ煩わしかった。
引っ付けあって笑ったこともあるが、それ以上に服に引っ掛かって手間を取られた印象が強い。
何も考えず、惰性で歩を進めていた人にとっては大敵だろう。
取ればいいだけなのだが、その時間がなんとも惨めだった。間抜けさを露呈しているようで、なんとも恥ずかしかった。
しかし10数年も経ってみれば、こいつの印象はガラリと変わっていた。
こいつには変化が見られないから、こっちが変わったんだろう。
否定的な言葉でしか表現されなかったものも、時間と共にその表現を変えていく。
大人になった、といえば聞こえはいいが、つまりは感情の振れ幅が少なくなったのだと思う。
小さなことに動じなくなったとも言えるし、些細なことから何かを感じ取ることができなくなったとも言える。
足元に広がる小さな世界を見なくなることを成長と呼ぶのなら、昔のようにこの美しい世界に心を動かすことはもう出来ないのかもしれない。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
ぼんやりと、ただぼんやりと。
いい天気でもないし、別にいい写真というわけでもない。
なんの変哲もない、何度も見た景色。
でもだからこそ、いい。見慣れているからこそ余計な感想を持つ必要がなく、何かも考えずただ見つめていられる。
こういう時間があれば、もっと平和になるのではと思う。
ぼんやりといつもの風景を眺める。
難しいことはどうでもよくて、単純に時間の流れだけを感じればいい。
地面が冷たいとか、雲が動いているとか、そんな普通でつまらないことに意識を向けることで、不要なものを捨てられるのではないだろうか。
頭を重くしていた不安とか不満とか、邪魔なものは全部吸い取ってくれる。
そんな力があるのかなと、思った。
少しだけ浮かべたかもしれません。
こんにちは。
青く透き通った空、それをかき消すような日差し。
圧倒的な鮮やかさに対し、なす術も無く持ち上げられた、ような気がした。
実際はしっかりと地面に押し付けられていたはずだ。
しかし、それなのに少しだけ目線が高くなったようだった。
到底超えられない壁がある。
それにもかかわらず、この暴力的な輝きの前ではそんな錯覚に陥ってしまう。
「背中を押してくれる」なんて優しいものではないけれど、それが前へ進ませてくれていることは間違い無い。
さぁ、進もうか。
色彩の暖かみを感じました。
こんにちは。
この記事では、僕のプロフィールになっている写真を投稿します。
少し痛みを感じるほどの冷たい風が、頬を掠めていった。
天気の悪化を予想でもしたのだろうか、無意識に上を向いていた。
予想とは真逆だった。
季節を忘れさせるほどの日差しが、鮮やかに彩られた木々をより一層輝かせていた。
肌では「冷」を感じ、目では「熱」を感じられた。
この2つの対比がお互いを邪魔することなく、高め合っているように思えた。
対極にあるからこそ、離れているからこそ、それらが歩み寄った時に引き立つのかもしれない。
近くからでは気づけないものに、離れれば気づけるのかもしれない。